八十川のボーク事件
1933(昭和8)年の早慶戦の「リンゴ事件」と並び、
六大学野球史上に残る大事件として、歴史に残っているのが、
1931(昭和6)年春の慶応-明治戦で起きた、「八十川ボーク事件」です。
明治の八十川胖投手の、牽制球の動作に下されたボークの判定を巡って、 とんでもない大騒動となってしまった、この事件を紐解いて行く事としましょう。
慶応の小川年安の先制3ランホームランで始まった、この試合は、
そして、明治が6-5と1点をリードした8回裏、慶応の攻撃、 1死1、3塁で、慶応の打者は牧野直隆、
明治の投手は八十川、
という場面で、事件は起こりました。
この場面、八十川は、まずは三塁側に牽制球の擬投を行った後、
すると、その途端に、慶応の腰本寿監督が脱兎の如く飛び出し、
「ボークだ!」
と、主審の浅沼誉夫に、猛然と抗議しました。
すると、浅沼主審は、この抗議を認め、
これに対し、岡田源三郎監督以下、 明治の選手達は、激怒しました。
「何故、今のがボークなんだ!」
と、明治側も審判に食ってかかります。
実は、この場面には伏線があって、 このシーズンの開幕前、審判会議が行われ、 八十川が行ったような牽制球の動作はボークという、
しかし、この取り決めは、早慶にのみ通達され、
そのため、慶応と明治の間で、牽制球のルールの認識に、
結局、判定はボークとなり、慶応の得点は認められ、試合は6-
そして、慶応がサヨナラ勝ちを収めた事により、
試合終了と同時に、明治応援団や明治ファン達は、
慶応は、このような明治側の監禁の暴挙に怒り心頭に発し、 明治側へ、
「こんな野蛮な学校とは、試合は出来ない」
と通告する事態となりました。
そして、この騒動の責任を取り、 明治はリーグ戦の残り試合の出場を辞退するという形で、
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