小さな大投手・山中正竹

東京六大学野球史上、最も多く勝ち星を挙げた投手は、

通算48勝を挙げた、法政の山中正竹です。

山中は、身長168cmという小柄な体のサウスポーでしたが、 その小柄な体を物ともせず、六大学の強打者達に立ち向かい、

通算48勝という大記録を達成したのです。

山中は、1947(昭和22)年、大分県に生まれています。

佐伯鶴城高校を経て、1966(昭和41)年、山中は法政に入学しました。

当時、山中の一学年上には、田淵幸一、山本浩二、富田勝の、いわゆる「法政三羽烏」が居り、

法政は黄金期を迎えつつありましたが、 そんな中にあって、山中は松永怜一監督に抜擢され、

一年生から、法政のエースとして活躍しました。

山中の在学中、法政は、1967(昭和42)年秋、1968(昭和43)年春、1969(昭和44)年秋と、

計三度の優勝を果たしていますが、

当時は六大学の各校に精鋭が揃い、実力伯仲の状態でした。

そのため、最強メンバーを揃えた法政といえど、 そう簡単に優勝出来るほど、甘くはなかったのです。

そんな中、山中は必死に投げ続けました。

「各校ともに強く、1勝1敗の3回戦までもつれ込む事が多かった。その結果として、勝ち星が積み上がって行った」

と、山中は当時の事を回想しています。

身長168cmと、上背の足りなかった山中は、 バッテリーを組んでいた、一学年上の捕手・田淵幸一と共に、 相手チームを徹底的に研究し、投球術を磨いて行きました。

そして、山中は、六大学の各校の強打者達と、激しい戦いを繰り広げましたが、 中でも、早稲田の谷澤健一との対決は、語り草となっています。

また、山中は、マウンド捌きが実に堂に入っていて、 常に冷製沈着で、落ち着き払っていました。

どんな場面でも、表情一つ変えず、冷製に投げ続ける山中は、チームメイトにとっても、 実に頼もしい存在だったに違いありません。

1969(昭和44)年秋、勝てば法政の優勝が決まるという、最後の試合で、 本来は登板予定ではなかった山中は、 リリーフとしてマウンドに上り、見事に胴上げ投手となりました。

四年間、必死に頑張った山中に対する、松永監督のプレゼントに、山中は涙が止まらなかったと言います。

こうして、山中の栄光の四年間は、最高の形で、幕を下ろしました。

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