早稲田野球部の父・安部磯雄

社会主義者、キリスト教者として著名な、安部磯雄は、 早稲田野球部の育ての親でもありました。

1901(明治34)年、安部磯雄は早稲田野球部の初代部長に就任し、 早稲田野球部の精神的支柱となりました。

安部は、自身は野球経験こそ無かったものの、その慈愛に満ちた人柄で、部員達から慕われました。

1904(明治37)年、安部は早稲田の野球部員達に、

「諸君が、一高、慶応、学習院の各校を破り、全勝したら、諸君をアメリカ遠征に連れて行ってあげます」

と、宣言しました。

この宣言に、早稲田の野球部員達は大喜びし、大いに奮起します。

そして、同年、早稲田は本当に一高、慶応、学習院の各校を撃破し、全勝を達成してしまったのです。

部員達を奮起するために、ぶち上げた事が本当に実現してしまったので、他の教授達は大慌てしましたが、

安部は慌てず騒がず、早稲田の創立者・大隈重信に直談判し、 野球部の渡米遠征の費用を、大隈に工面してもらったのです。

こうして、早稲田野球部の渡米遠征が実現しました。

時あたかも、日露戦争の真っ最中であり、 野球部の渡米遠征など、全く破天荒な事だったにも関わらず、

ちゃんと野球部の渡米遠征の約束を守った安部も、 野球部のために、ポンとお金を出した大隈も、 流石は、どちらも大物です。

早稲田野球部は、この渡米遠征で、野球の本場アメリカの野球技術や、最新式の野球用具など、 多くの物を得ました。

そして、安部が偉大だったのは、早稲田野球部が帰国した後、早稲田が得た野球技術や用具を、早稲田だけで独占したりせず、惜しげもなく、他校にも与えた、という事だったのです。

こうして、日本野球のレベルは、飛躍的に向上しました。

その後も、安部は早稲田の野球部長を長く務め、早稲田と、日本野球の発展に、力を尽くしました。

戦後、1949(昭和24)年に、安部は84歳で亡くなりましたが、

早稲田は、安部の功績を称え、早稲田の本拠地の戸塚球場を安部球場に、 野球部の寮を安部寮へと改称しました。

安部磯雄は、「早稲田野球部の父」「日本野球の父」として、日本野球の歴史に偉大な足跡を残したとして、

1959(昭和34)年、第1回の野球殿堂入りを果たしています。

コメントをどうぞ

サブコンテンツ

このページの先頭へ