法政初優勝のエース・若林忠志

2013年現在、法政は、東京六大学野球最多の、 44度の優勝回数を誇っています。

その法政が、六大学野球で初優勝したのは、1930(昭和5)年秋の事でした。

法政を初優勝に導いた大エースこそ、 ハワイ生まれの日系二世、若林忠志投手だったのです。

若林は、1908年、ハワイのオアフ島に生まれました。

幼少の頃から、スポーツ万能だった若林は、 野球とアメリカン・フットボールに夢中になりました。

また、大変な腕白でもあった若林は、ガキ大将的存在だったと言います。

若林には、「BOZO」というニックネームがありましたが、寺の坊主という意味だとか、

スペイン語の「bozo」(鼻の下の髭。歳の割に大人びている、という意味)から来ているなど、

由来については諸説ありますが、いずれも、定かではありません。

やがて、マッキンレー・ハイスクールに進学した若林は、捕手のカイザー田中(田中義雄)とバッテリーを組み、

投手としての才能を、開花させて行きました。

1927年、ハワイ戦抜軍に選ばれた若林は、 初来日を果たし、日本の大学チームなどと対戦しますが、

その対戦相手の中に、法政大学が居ました。

当時、早慶明の後塵を拝し、未だに六大学野球での優勝経験が無かった法政は、 若林の投手としての才能に惚れ込み、若林を入学させようと試みます。

そして、同年秋に、若林は法政に入学しましたが、ここで他校から、待ったがかかりました。

日本の学校を卒業していない若林が、日本の大学に入るのはおかしい、というのです。

そこで、若林は本牧中学へ編入→卒業した上で、1929年、晴れて法政入学を果たしました。

一年目の1929年こそ、不成績に終わった若林でしたが、

翌1930年秋、若林は法政のエースとして、大車輪の働きを見せました。 そして、法政は慶応との激しい優勝争いを制し、遂に悲願の初優勝を達成したのです。

若林は、法政在学中、通算43勝28敗の成績を残し、法政を三度も優勝に導きました。

その後、若林は阪神、毎日で活躍しました。

若林は、プロとしての働きに応じて、高額な報酬を球団に求めるなど、

野球をビジネスとして捉える先駆者としても、日本球界に大きな足跡を残しています。

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