プロ野球と東京六大学野球(2)

1945(昭和20)年、

長かった戦争も、ようやく終わった時、
日本は、国中が焼け野原と化していました。

戦争を乗り越え、生き残った人々は、
食うや食わずの苦しい生活を強いられましたが、

そんな人々にとっての、唯一とも言える娯楽であり、希望の星だったのが、
野球だったのです。

野球は、戦後間もなく、復活を遂げ、
人々の熱狂的な支持を集めました。

野球は、平和の象徴として、
人々の荒んだ心に、安らぎと勇気と希望を与えたのです。

終戦から僅か2ヶ月後の、1945年10月には、
早くも全早慶戦が行われ、後楽園球場は、
超満員の観客で埋め尽くされましたが、

同年11月、プロ野球も、東西対抗戦を挙行し、
ここで、大下弘という、明治大学出身の、全く無名の新人が大活躍した事もあり、

プロ野球の東西対抗戦は、大成功を収めました。

そして、翌1946(昭和21)年、

この大下弘や、戦前からの大スター、巨人の川上哲治らの大活躍もあり、

プロ野球は爆発的な人気を集めました。

同年には、東京六大学野球も復活し、
野球界は活況を取り戻します。

こうして、戦前は、全く日陰の存在だったプロ野球も、

ようやく脚光を浴びましたが、
それでも、東京六大学野球こそが、人気ナンバーワンという構図は、暫く続きました。

その構図を、一気に逆転させたのは、
一人のスーパースターの存在でした。

それは、立教大学の選手として、東京六大学野球で大活躍した、
長嶋茂雄選手、その人でした。

長嶋は、神宮を沸かせた、当時の東京六大学野球きっての人気者でしたが、

その長嶋が、プロ野球の巨人に入団した事により、
プロ野球にも、一気に注目が集まりました。

長嶋の巨人入りを巡っての報道合戦は過熱し、長嶋の人気は、社会現象ともなりましたが、

長嶋は、マスコミやファンの期待に見事に応え、
プロ一年目から大活躍を見せました。

その後も、長嶋は巨人の中心選手として、
長く活躍しましたが、この頃に発達したテレビにより、

長嶋の活躍は、全国のお茶の間にも届けられ、

長嶋、そして巨人の人気は、全国区のものになって行きました。

こうして、東京六大学野球のファンを、
そのままプロ野球に連れてきた、

とも言うべき、長嶋の活躍が転機となり、
プロ野球と東京六大学野球の人気は逆転し、

以来、その構図は変わらぬまま、今日に至っています。

全く、長嶋こそは、
戦後日本が生んだ、最大のスターであると言えましょう。

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