慶応の名塾長・小泉信三

小泉信三は、慶応の塾長にして、経済学の大家でしたが、 慶応野球部、そして、東京六大学野球とも、深い関わりがありました。

小泉信三は、1888(明治21)年に、紀州藩士・小泉信吉の子として生まれました。

父は、福澤諭吉の直接の門下生だった事もあり、 小泉も、幼少の頃、晩年の福澤諭吉に目をかけてもらった事がありました。

なお、父・信三も慶応の塾長に就いた事があり、 小泉信三は、親子二代で、慶応の塾長を務めた、という事になります。

小泉は、慶応で経済学を修めた後、同校の経済学部の教授に就任し、 経済学の分野で名を成して行きましたが、

慶応のテニス部の部長を長く務めるなど、 スポーツにも、大変に愛着を持っていました。

そして、慶応の野球部に対しても、物心両面で、 多大な支援を行いました。

小泉は、1933(昭和)年~1946(昭和21)年の間、慶応の塾長を務めました。

この間は、日本が次第に戦争への道を進み、 六大学野球にも、その暗い影が徐々に忍び寄って行った時代でもありました。

戦争が激しさを増し、日本の戦局が悪化の一途を辿って行った頃、

軍部や政府当局からの、野球に対する風当たりは、どんどん強くなって行きました。

日本の交戦国であるアメリカ生まれのスポーツ・野球は、>彼らから白い目で見られるようになって行ったのです。

六大学野球は、無理矢理に試合数を削減されるなど、政府当局から弾圧されて行きました。

小泉は、この六大学野球弾圧の風潮に対し、敢然と立ち上がりました。

単身、政府の各部署へ乗り込んだ小泉は、 野球弾圧がいかに無意味で、馬鹿げた事であるかを、彼らに対し理路整然と、説いて回ったそうです。

小泉の正論に対し、当局の関係者達は一言の反論も出来なかったそうです。

しかし、小泉の懸命の努力の甲斐もなく、 1943(昭和18)年、東京六大学野球リーグは、遂に解散の憂き目に遭いました。

同年10月、学徒出陣を前にした、 いわゆる「最後の早慶戦」の実現に、 小泉は慶応側の代表として、奔走しました。

そして試合当日、小泉は慶応の学生席で、学生達と共に、心行くまで試合を堪能しました。

「私は、学生達と共に居るのが、楽しいんですよ」

と言う小泉の姿は、大変幸せそうだったといいます。

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