燃える男・星野仙一

今年(2013年)、東北楽天ゴールデンイーグルスを、見事に日本一に導いた、星野仙一監督。

星野監督は、中日、阪神に続いて、楽天も優勝させ、これで、3球団を優勝させるという、 史上3人目の快挙を達成しました。

その星野仙一は、明治のOBです。

星野は、明治のエースとして活躍し、その後、プロ野球の中日でも、エースとなりました。

星野は1946(昭和21)年、岡山県に生まれました。 生後間もなく、父親を亡くしたため、星野は父親の顔を知らずに育ちました。

倉敷商を経て、1965(昭和40)年に、明治に進学した星野は、 島岡吉郎監督との出会いを果たします。

星野は、島岡監督の指導により、 明治の中でも、すぐに頭角を現す存在となりました。

そして、一年生の春から、ベンチ入りを果たしたのです。

星野は、島岡監督から、徹底的に「人間力野球」を叩き込まれました。

星野は、野球のみならず、人格形成の上でも、島岡監督から大きな影響を受けました。

父親が居なかった星野は、島岡監督を、父親のように思い、接していたのかもしれません。

一年生時から、明治の投手陣の中心的存在となった星野は、 二年生の秋(1966年秋)には立教戦でノーヒットノーランを達成しました。

結局、星野は明治の四年間で、 通算23勝25敗の成績を残しましたが、

星野の在学中、 田淵幸一、山本浩二、富田勝の「法政三羽烏」の居た法政の厚い壁に阻まれ、 明治は一度も優勝する事が出来ませんでした。

しかし、星野は

「俺は、明治大学野球学部島岡学科卒業だ」

と公言するほど、明治での四年間を宝物のように大切に思っているそうです。

1968(昭和43)年のドラフト会議で、

星野は、巨人からドラフト1位指名の打診を受けていながらも、 実際に巨人から1位指名を受けたのは、 武相高校の島野修。

その時に、星野が

「島と星の間違いだ!」

と、言ったという、有名なエピソードがあります。

結局、中日に入団した星野は、 巨人戦には異様な闘志を燃やし、

「燃える男」

として、野球ファンに強烈な印象を残しました。

1974(昭和49)年には、中日は巨人のV10を阻止し、20年振りに優勝。 星野も中日のエースとして、優勝に貢献しました。

その後の星野の活躍は、広く知られている通りです。

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